シヤージュとは、身につけた人が通り過ぎるとき空気中に残る香水の軌跡である。立ち止まっている人のまわりに香りがどこまで広がるかを表すプロジェクションとも、肌にどれだけ長くとどまるかを表す持続性とも違う。香りは強く広がっても短く終わることがあり、その逆もある。
廊下に残る軌跡
誰かが廊下を歩き、別の部屋へ曲がっていく。数秒後、その人が通った場所の空気はまだ匂っている。その匂いは近くにいる誰かの肌から来るのではなく、肌を離れて空気中に漂う分子から来ている。フランス語はその軌跡を sillage と呼ぶ。もとは船のうしろに残る航跡のことだ。
短い定義。シヤージュとは、身につけた人が動くとき空気中に残る香りの軌跡である。持続性とは違う。持続性は肌やムエットといった表面そのもので測られ、ふつう時間で記録される。プロジェクションとも違う。香水の売り手が言うプロジェクションとは、立ち止まっている人のまわりに香りがどこまで広がるかのことだ。
三つの言葉はよく混同される。プロジェクションが強いと褒められる瓶が、強いのは最初の一時間だけということもある。持続性を褒められる瓶が、肌の近くにとどまり、そばにいる人にもほとんど気づかれないこともある。三つを分けておくと、説明を正しく読む助けになり、同じ強さの二本の瓶がなぜ違うふるまいをするのかを説明する助けにもなる。
三つとも分子しだいである。速く揮発する分子があり、長くしがみつく分子があり、そして処方全体を広げる小さな一群がある。この記事が見るのは、その三つ目の一群だ。
シヤージュ、プロジェクション、持続性
持続性は、最も測りやすい言葉である。Lê Maiのライブラリはそれを保留性と呼ぶ。素材や香りが、ムエットや肌の上でどれだけ長く感じ取れるか。揮発性チャートは、Lê Maiが扱う精油ごとにその時間を、The Good Scents Company の数値を使って記録している。柑橘はムエットの上で数時間から数十時間しかもたないことが多く、ウッドや樹脂は数百時間を超えることもある。
プロジェクションは測るのがより難しい。表面を離れて、まわりの空間を満たす香りの力であり、ライブラリはそれを拡散性と呼ぶ。この定義によれば、素材はよく拡散しても持続が短いことがあり、長く持続しても拡散が弱いことがある。二つの性質が自動的に連れ立つわけではない。
シヤージュは、プロジェクションに動きを足したものだ。身につけた人が歩くと、まわりの空気が引き連れられ、拡散した分子があとに残される。よく広がる香りはふつうはっきりしたシヤージュをもち、肌の近くにとどまる香りは細い軌跡しか残さない。
三つとも瓶の外にあるものに左右される。肌の温度、暖かい空気か冷たい空気か、風、衣服。だからネットで見かけるシヤージュやプロジェクションの評価は、たいてい一人の人が一つの場面で受けた印象であって、測定ではない。
拡散する分子
速く揮発する分子が、遠くまで届くとはかぎらない。オレンジの皮の主な分子であるリモネンは、分子量が約136 g/molで、肌からごく早く離れていく。フレッシュなオレンジの香りは最初の数分ははっきりしているが、やがて薄れる。揮発は速い。だが、速く消えることと、広く広がることは同じではない。
離れた場所で分子が気づかれるかどうかを決めるのは、その匂いの閾値である。試験パネルの半数が匂いを感じとる、空気中の最低濃度のことだ。閾値は分子によって何桁も異なる。閾値のきわめて低い分子は、わずかしか届かなくても、遠くの鼻に気づかれることがある。
拡散は量にも左右される。処方のなかで異例に高い比率で使われる素材、業界でオーバードーズと呼ばれるものは、広がるための物質をそれだけ多くもつ。後に記すように、最もよく引かれる初期の例がヘディオンである。
拡散をめぐる議論で最もよく挙がる合成分子は三つ。ヘディオン、Iso E Super、アンブロキシドである。三つともリモネンよりずっと重く、分子量はおよそ226から236 g/mol、いずれもハートかベースに属する。拡散と揮発の速さが別の問題であることを、これらは示している。
ヘディオンと Iso E Super
ヘディオン、化学名ジヒドロジャスモン酸メチルは、1950年代後半から1962年にかけて、Firmenich の Edouard Demole がジャスミンのジャスモン酸メチルを研究するなかで同定し、合成した。香りは透明なジャスミンに軽い柑橘の面があり、空気のように軽い。ライブラリはこれを、空間と輝きの感覚を与えるものと記している。
Edmond Roudnitska が手がけた1966年の Christian Dior「Eau Sauvage」は、ヘディオンを相当量使った最初の市販香水としてよく挙げられる。以来ヘディオンは現代の調香で最も多く使われる素材のひとつとなり、処方の大きな割合を占めることもある。周囲のフローラル、シトラス、ウッディのアコードを軽くし、広げる。ヘディオンには専用の IFRA スタンダードがなく、表示が必要な EU の香料アレルゲンのリストにも入っていない。
Iso E Super は1970年代初めに IFF が開発し、特許を取った。香りはなめらかで乾いた木に、アンバーの感触が加わり、とても透明だ。不思議なことに、多くの人はこれをかすかにしか感じない。それでいて、周囲のすべてをより広く放射させる。市販品は異性体の混合物で、最も強い匂いをもつ少量の異性体が、強さの多くを担っている。
Iso E Super はほぼすべての香りの系統で使われ、数十パーセントを使う処方もある。ヘディオンと違い、こちらは制限を受ける。IFRA は2020年にこの素材群のスタンダードを公表し、製品カテゴリーごとに上限を定めた。また規則 (EU) 2023/1545 のもとでは、定められた閾値を超えると名称の表示が必要な香料アレルゲンのリストに入っている。
アンブロキシドと鉱物的な輝き
アンバーグリスは海で見つかる芳香のかたまりである。そのなかでアンブレインが海上でゆっくり酸化し、生じるもののひとつがアンブロキシドだ。アンバーグリスの最も重要な香気成分である。
1950年、Firmenich の Max Stoll と M. Hinder は、クラリーセージから得られるジテルペン、スクラレオールからアンブロキシドを合成した。いくつかのメーカーがそれぞれの名前で販売している。Ambrox、Ambroxan、Cetalox、Ambrofix。新しい製法のなかには、スクラレオールの代わりに糖の発酵で前駆体をつくるものもある。
アンブロキシドは乾いた清潔なアンバーの匂いで、ウッディと鉱物的な面をもつ。日を浴びたあとの温かい肌のようだ。ライブラリはこれを、拡散性がきわめて高く、持続もきわめて長いと記録している。遠くに届き、しかも長く残る。どの分子ももつわけではない組み合わせである。低い濃度では拡散と温かい肌の効果を添え、高い濃度では処方の主役になりうる。アンブロキシドには専用の IFRA スタンダードがない。
アンブロキシドと Iso E Super の組み合わせは、多くのミニマルなウッディアンバーの香水の土台になっている。二つの分子はともにベースにあり、ともに広く放射する。だからこれらを軸に組んだ香りは、始まりから終わりまでほぼひとつの形を保ち、空気にはっきりした軌跡を残しやすい。
強く広がることは、長くもつことではない
最初の1時間に強く広がる香りは、厚いトップのおかげかもしれないし、軽い分子を持ち上げるアルコールのせいかもしれないし、閾値の低い素材によるのかもしれない。どれも、5時間後に香りが残っていることを保証しない。逆に、肌の近くにとどまる香りが、周りのほとんど誰も気づかないまま、翌日もまだ感じとれることがある。
つけている本人も、よい判定者ではない。ひとつの香りを嗅ぎつづけると知覚が落ちる。嗅覚疲労と呼ばれる現象だ。しばらくすると本人は香りが消えたと思うが、そばを通る人はまだその軌跡に気づいている。合成ムスクのなかには、まったく嗅げない人がいるものもある。記事部屋の半分が嗅げない香りが記録しているとおりだ。
だから、シヤージュ、拡散、持続は分けて読むのがよい。強く広がるという説明は、人の周りの空気について語っている。長くもつという説明は、肌の表面について語っている。どちらも分子と濃度と環境に左右され、どんな説明も、数時間かけて嗅ぐことの代わりにはならない。
記事香りが去るまでの時間は持続の話を続ける。香りがなぜ肌に残るのか、何が香りを早く去らせるのか。
香りの軌跡とは、つけた人から離れた香りのことだ。
遠くへ行くものが、長くとどまるとはかぎらない。
肌が保てないものを、空気が保つ。